僕が6年前、ボランティアコーディネーターとしてとてもお世話になったボランティアさんが先月お亡くなりになり、昨日お参りに行ってきました。
「医者に見放された」というと語弊があるのでしょうが、最後の1ヵ月間は、治らない病気を治そうとするのをやめ、自宅でだんなさんとお嬢さんの3人で暮らすことを選ばれました。ボランティア仲間との連絡も断ち、自分の病気のことを誰にも知らせず、最後の1ヵ月間を過ごされました。
そういう死に方もあるのだなあと思います。
僕だったら余命1ヵ月とわかったら、いろんな人に会いに行ったり、会いに来てもらったり、楽しかったことを思い出したり、ずっと話せなかったことを話したり、聞けなかったことを聞いてみたり、そんな風に過ごすのではないかと思います。でも、いざそうなったら、どうするかわからなくなりました。
元気だったころの楽しい思い出だけを覚えていてほしい。みんなに心配かけたくない。という気持ちだったとのことです。お孫さんにも会いに来るなと。
やりたいことはまだまだあるから、まだまだ生きたいと思うけど、これまでやりたいことはやらせてもらってきたので、悔いはないと。でも、本当はボランティアではなく、自然に関わる仕事がしたかった、とも聞きました。
僕なんかいつも、自分さえよければいいと思ってしまうので、問題が見えていても見て見ぬふりをしたりしてしまいます。彼女はいつも、みんなのことを考えて、全体がうまくいくように、と考えて、行動する人でした。どちらがコーディネーターかわからないくらい、助けていただいたのを思い出します。
亡くなる前日まで座ってご飯を食べておられ、最後はあっという間だったとのこと。最後の1ヵ月間、家族で自宅で生活できてよかったね、と思ったのですが、だんなさんは「つらかった」とおっしゃっています。でも、つらかったと思うけど、人間として、生き物として、とても自然な最期を家族と一緒に迎えられたこと、それでよかったのだと、それを幸せと呼んでいいのだと、今の僕は思っています。
僕から見たらカッコよく死んでいった彼女。残された僕たち。彼女のことを語り継ぎ、忘れないことが僕にできることだと思っています。
最近、自分の死に方についてもよく考えるようになりました。家族の前で「いつ死ぬかわからん」と言うと、「不吉なことを言ったらあかん。言葉にすると現実になる」みたいなことを言われましたが。
ちょっと前に生き方について書いたと思ったら、今日は死に方について書くことになりました。生き方を考えることは死に方を考えることかもしれないなと思いました。
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