2012年4月17日火曜日

とある水族館で


とある水族館で、とある動物の赤ちゃんが死にました。それについて書いてみようと思います。とても暗い文章だし、すべての人に読んでほしいと思っているわけでもないですし、あまりお勧めしません。

その赤ちゃんは、生まれて1週間ほどで、衰弱して死にました。その赤ちゃんのことをよく知っている人に聞いた話では、「生きる気力がない」状態だったとのことです。

生まれてから、一向に親の乳を吸おうとしないため、親から離して人工ミルクをやることにしました。哺乳びんから飲もうともしないので、カテーテルというチューブを使って胃に直接流し込みます。でも数日のうちに吐いてしまう。どれだけ栄養を取れているのかわからない。ミルクを欲しがる仕草もない。日ごとに体重が減っていき、静かに息を引き取ったようです。

僕はその赤ちゃんに会ったこともないし、その赤ちゃんの近くにいる人から詳しく話を聞いたわけでもないので、間違っている部分や、思い込みがあるかもしれません。15年ほど前に、よく似たケースに立ち会っていたのでその記憶が強く、そのことについて思いだして書いているだけなのかもしれません。

野生でも、その動物の赤ちゃんは4割しか生き残らないと聞いたことがあります。生まれながらに何らかの障害があったのかもしれません。だから死んでも仕方がなかった、と言われるのでしょう。

「仕方なかった」「飼育係や獣医のせいじゃない」「気にしなくていい」もちろんそうなのでしょう。飼育係はそうやって、死んでしまった飼育動物について、自分のせいじゃない、自分が死なせたんじゃない、自分が殺したんじゃないと、思おうとすることがあります。思おうとするというより、迷わずそう思っていることの方が多いかもしれません。

僕は、水族館の動物が死んだら、どんな死に方であったにせよ、「飼育係が殺した」と思うことにしています。赤ちゃんの世話をもう少しうまくやっていたら、母親の妊娠期間に母親の精神状態をもう少し穏やかにしてあげられていたら、、、もしかしたら赤ちゃんはもう1日生きていたかもしれません。さらにもう1日、2日、、、今でも生きていたかもしれません。可能性がないとは言えないという意味です。プロなら、そこで「仕方なかった」と言ってはいけないと思っています。

僕も自分が飼育係だった時、「仕方ない」と言われる状況で、また「こうしていたらあと1日生きたかもしれない」と思うような状況で、何度も動物を死なせてきました。いや、殺してきました。だから「飼育係が殺した」と言う僕の言葉は、自分自身に対しての言葉です。飼育係として働いた時期は、そうして繰り返し傷ついた時期でした。うれしいこともいっぱいあったし、自分ががんばったことで動物が長生きしたり、死ななかったこともあったでしょう。でも、覚えているのは、心に残っているのは、しんどい思い出ばかりです。

それで僕は「なぜ動物を飼わなくてはならないんだろう」と思うようになったのです。また「飼育されている動物たちはかわいそうだ」と思うようになりました。他の飼育係はあまりそうは思わないようで、それはたぶん、僕のようには傷ついていないからなのかもしれません。「仕方ない」と思うことで傷つかないで済むのかもしれません。

「自分がこんなに一生懸命飼育しているのだから、動物は幸せなはずだ」と思える人は幸せなのでしょうか。「野生の状態とできるだけ同じ状態で生活できるように環境を整えることで、動物の福祉は向上する」といって、動物が幸せだと本気で思えるのでしょうか。刑務所の壁を透明にして健康食品を食べさせるようなものです。

死ぬまで動物を飼うということは、長い時間をかけて動物を殺すことです。水族館の動物たちは、連れて来られて、檻に入れられて、人間の都合で飼い慣らされて、かわいそうなのです。私たちは水族館という楽しい施設を、動物たちのそんな犠牲の上で運営しているのです。

だから水族館はもうこれ以上作ってはいけないと思います。将来、減らしていけばいいと思います。そして今ある水族館は、せめて自然環境のために、彼ら動物たちの本来の生息地を守るために、そのための環境教育に水族館を使わなければ、許されないと思っています。僕が僕自身を許せないということでしょう。

僕はそのためにしか今ここにいたくありません。

「野生から生き物を捕ってこなかったらいいのだ、繁殖させればいいのだ」なんて、少し考えてみれば、何の言い訳にもなっていないことがわかります。少なくとも僕にとっては意味はありません。水族館で生まれたアザラシは本物の海を見ることなく死んでいく、それでいいのでしょうか。

「捕ってきても、数年間飼育して、死なさずに野生に戻せばいいのだ」というのは、百歩譲って、許せるかもしれません。実際、ジンベエザメの飼育をそんな考え方でやっているところもあるようです。でも、他の動物では、そんな面倒なことはされないでしょう。

死んでしまった赤ちゃんの話に戻ります。水族館にもよりますが、この赤ちゃんが生きていて、展示に成功していたら、大きく発表して、宣伝するところだったでしょう。でも、発表する前に死んでしまったこの赤ちゃんについては、死んだことも、ましてや生まれたことも、発表されることはありません。「これまで生まれた赤ちゃんの数」にも数えられないでしょう。

世の中の誰もが、死んだ赤ちゃんのことなど、隠しておいてほしいと思っているのです。水族館で、毎日のように動物たちが死んでいっていることなど、知りたくもないのです。水族館は楽しくて、生きていることだけが感じられるところであればいいのです。

「動物を殺しているのは飼育係」と言いました。でも、僕はサラリーマンです。僕の給料は、水族館の運営費は、お客さんの払った入館料から来ています。お客さんが、お金を払って、僕に動物を飼ってもらっているのです。動物を殺しているのは本当はお客さんかもしれません。だからこそ動物が死んだことは、できるだけ隠してほしいのだと思います。

僕は少なくとも、僕の信じている人たちには、自分が何らかの形で、動物たちをかわいそうな目にあわせている、ということをごまかさないでほしいと願っています。別に、普段から意識してほしいなんて思いませんし、水族館は単純に、純粋に、楽しんでいただいたらいいと思います。でも、「そうだろ」と言われた時に「そうじゃない」とは言わないでほしいんです。矛盾しているかもしれませんね。

「本当はこうあるべきなのに、今は残念ながらそうではないのです。」ということを認めないといけないと思います。「内心忸怩」という言い方が適切だと思っています。

でも、強がらないためには、強さが必要なのですよね。みんな弱いから、強がるしかないのでしょうか。

飼育係のことを言っているのか、一般のお客さんのことを言っているのか、わからなくなってきています。自分はこんなことを伝えたいと思っているのかどうかも、よくわかりません。少なくとも飼育係には、そういう意識を持ってもらえたらと思います。わからない人にはわからない話だと思いますが…。



こんなこと言いながらも、今の仕事をもう少し続けてみようとは思っています。今のところやりたいようにはできていませんが、信念を曲げて仕事をさせられていると感じているわけでもないです。もっといい仕事があればと思いますが、家族のこととか考えると、自分の好き放題する年齢でもないなあとも思います。


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